| 論壇/呼び掛け |
もういちど反原発・脱原発運動の再構築だ 木村 勝昭 |
| 3月11日 こんな揺れははじめてだ 3月11日のあの時間、私は近所のやや古い木造住宅の二階で会議をしていた。昭和39年から東京に住みついて47年になるが、こんな激しい揺れははじめてと感じた。起震車での振動体験を幾度となく経験したが、まさに起震車なみ。しかもますます揺れは激しく収まらないで続く。これはいよいよ東京の大震災発生か…との思いが脳裏をよぎる。 揺れが収まると数人の方は「家が心配だ」と帰宅してしまった。会議もそのまま中断した。あの日以来テレビもラジオも新聞もあらゆる報道は歴史的巨大地震、巨大大津波、そして福島第一原発事故関連の報道で埋まる。 1973年以降、世界中で起きたM5以上の地震の数はイギリス(8回)、ドイツ(17回)、アメリカ(385回)に対して、日本(3542回)と群を抜いての数であるとのことだ。地震列島・日本であることはあまりにも明確であるにもかかわらず、いつの間にか「原発安全神話と科学技術万能信仰」がこの国を覆い、それでも「まさかのまさか」のことは「想定外」として思考停止させられ3月11日を迎えた。 思考停止した国民の代償はあまりにも大きい。3月11日の映像を見ながら私を含め多くの方が同胞の犠牲に涙したと思う。そして時の経過とともに報道される被災地のさまざまな映像は目には見えないで人体に忍び寄る放射線、放射性物質との闘いの苦労だ。大震災と原発事故の報道は見るたびに、いまも涙腺がゆるむ。その昔になるが反原発運動にかかわってきた経緯もあり、報道される映像を見ながらときどき忸怩たる思いにかられる。 思い起こすこと・反原発運動と当時の世論 私は29歳で昭和54年4月から当時の社会党籍で中野区議会議員を務めていた。本誌の読者の皆様方は昭和50年代、1970年代後半から1980年代の社会政治状況は自らの社会活動史でもある方が多いことと推察するが、区議会議員となった私は議会活動と並行しながら、地域での平和運動に明け暮れる日々であった。党の総支部内で、特に地区原水禁活動を積極的に進めるポジションをも受け持っていた。記憶を追いながら当時の状況を思い出してみたい。 当時、原水禁運動は総評・社会党ブロックが運動の主軸になり、毎年の広島・長崎での原水禁大会が開催されていた。市民との連携が弱いということがマスコミなどでも指摘されていた時代である。くわえて東京23区という都市部における原水禁運動は、地区労との連携なども脆弱であったために、運動の発展のためには新たな発想をもって取組む必要があった。 また当時の原水禁運動は「禁と協」すなわち総評・社会党ブロックの原水禁と共産党ブロックの原水協の対立問題もあった。 原水禁は「すべての核に反対、いかなる国の核実験にも反対」するという立場であり、戦争兵器としての核爆弾とエネルギー政策としての原子力発電の双方の核に反対という立場であった。そこで私は党内の協議や区民との相談・懇談をおこないながら「中野原水禁」を「核兵器と原発に反対し行動する中野の会」と改めて活動を進めることにした。もちろん原発立地ではないので直接行動をおこなったわけではないが、地域で原発についての学習会や講演会などの開催、主要駅頭での原発の危険性を訴えるビラまきなどを区民の方々と一緒になって取り組んだ。当時の社会党はつねづね「労働組合の方ばかり向いている」と言われていた時代でもあり、その中で区民と一緒になって共通の課題に向かって取組む姿勢に多くの区民も好感をもって対応してくれて一緒に活動を進めた。 原発立地の住民の反対運動・裁判闘争は各地であったが、当時の世論は国策として進められる原子力エネルギー利用を肯定的に受けとめた。というより政官財一体となった圧倒的な原発推進のPRによって「原子力発電は安全」ということをすり込みされ、さらに高度経済成長以降の拡大するエネルギー事情をまかなうには「平和利用」としての原子力発電に依拠して経済成長をすすめることが唯一の正論のごとく説かれた時期であった。 中野区議会での原発議論 当時の中野区や私の運動の状況を理解していただく必要があるので、少し当時の状況を解説しておきたい。中野区では教育委員の準公選をめざす条例制定活動が地域・区議会で果敢に取り組まれていた。そして条例制定が実現し、教育委員候補者選びの区民投票も実施された。全国ではじめての教育委員準公選であった。 当時の中野区は革新区政であった。私も議会与党の立場にあった。社会党、共産党、革新系無所属区議とさらに公明党区議団と連携すると区議会の過半数を確保できるという状況であった。もちろん教育委員候補者選びの区民投票条例の実現等もそのような政治状況の中での成果であった。与党議員、野党議員の真摯な議論あるいは激論の展開や相互の意見の調整などを丁寧に議会でおこない、まだ足りないところは議員同士が中野駅周辺の居酒屋で一杯酌みかわしながら話し合いをおこなうなどして合意形成を進めた。当時まだ新米議員であった私は、与野党問わず真摯な議論をかわす先輩議員から多くのものを学んだ。また私自身もその経験を身につけて議会活動をすすめていた。 そのような雰囲気のある中野区議会であったが、「核」に関係する重要な議論があった。教育委員準公選運動とは別に、中野区ではもう一つの住民運動が盛り上がっていたのだが、それは非核都市宣言を実現させる運動であった。 1982年(昭和57年)に住民運動により1万2千名の署名を付して「憲法擁護・非核都市宣言を求める」請願が区議会に提出された。区議会で請願を採択し、区はこれをうけて憲法擁護非核都市宣言案を作成し、青山良道区長による宣言発表前に区議会総務委員会に説明し承認をもとめた。宣言文は左記のとおりである。 まちには こどもの笑顔がある ひろばには 若者の歌がある ここには 私たちのくらしがある 海を越えた かなたにも 同じ人間の くらしがある いま 地球をおおう 核兵器は あらゆる いのちの営みを この しあわせを 奪い去る 私たちの憲法は くらしを守り 自由を守り 恒久の平和を誓う 私たちは この憲法を大切にし 世界中の人びとと 手をつなぎ 核をもつ すべての国に 核兵器をすてよ と 訴える この区民の声を 憲法擁護・非核都市 中野区の 宣言とする 折しもこの時期に区民から、区議会総務委員会には原発問題に関して政府に対して意見書を提出してほしいという陳情が提出されていた。原発関連の陳情は、自民党はもとより当時の民社党また公明党も「平和利用肯定」の立場であるために、陳情の採択は難しい問題であった。 区側の宣言案説明の際に複数の議員から宣言文中の「核をもつ すべての国に 核兵器をすてよ と 訴える」とある「核をもつ」の核は「原子力平和利用の核」も含むとするのか、しないのか。もし含むという解釈で提案をしているのならば宣言案は認められない、という強い意見がだされた。行政や議会という組織は、法律・条例・文書の制定・作成や解釈で見解を明確にするわけだが、原子力の平和利用を認めるのならば、この宣言文中の「核」には「原子力発電は含まれない」ことを行政も確認せよとする議員の要求であった。特に民社党の議員には、原発推進という当時の電力系労組の格別強い指示が出されていたようであり、中野区議会でも例外ではなかった。議会意見のとりまとめの立場でもあったために、以上のような意見を受けとめて対応することにした。 またこの解釈に立つ場合には、原発に関する意見書の提出はそもそも無理なことになり、区民からの陳情は不採択にすることでこの問題の終息を図った。なお宣言は1982年(昭和57年)8月15日に青山区長から発表された。 いま思えばこの宣言の「核をもつ すべての国に」の核はとりたてて原子力発電を想定するような意味には思えないが、それにもかかわらず前述のような「核」は原子力発電を含めないものとする、などの解釈を求めること自体、当時の原発推進派のナーバスさを示すものであった。 原発開発の裏面史とこれから そもそも「平和利用」の名のもとに原子力発電が始まるのは、米国のアイゼンハワー大統領時代からである。当時、原子力エネルギーの研究段階には多くの科学者が従事していろいろな原子力発電開発研究も進められていたようである。確かに私たちの反原発運動の学習会の折にも、専門知識に詳しい青年の参加などもあり「核分裂ではない核融合によるエネルギー創出」をおこなうべきである、などの意見を展開していた方もいた。 しかし1940年代の原子力研究は原子爆弾の製造をスタートにして、核爆弾の材料になるプルトニュウムを結果的に生産する原子炉開発、あるいは燃料補給の必要のない原子力潜水艦のエンジンに利用できる原子炉開発ということで、軽水炉型の原子炉開発になったといわれている。それ以外の研究には研究費さえ欠乏させ、研究者を死に追いやるような暗躍をおこなう。それをおこなったのは、巨大な資金を必要とする巨大開発をして巨大な利潤を目論むのは国際シンジケート(企業連合)だった。アイゼンハワー大統領は原子力の平和利用を宣言したが、大統領引退の際の演説で「米国における産軍複合体」の台頭に警鐘を鳴らしたのは、このような背景があったからだと想像できる。 日本列島は歴史的に、数多くの大地震に見舞われてきた。この列島にすむ私たちはそのことを受け入れて、はるかなる過去から生活を営み、これからも我々や子孫たちがはるかなる未来まで生活をしていくしか手立てがない。しかし原発は別である。活断層上に建てられている原発、津波の影響を受ける海岸線の原発。今回の事故を契機に、脱原発の動きを盛り上げることが大事なことだと思う。 この報告書をまとめる段階で資料の検索をしていたところ、ウラン・プルトニウム利用でない原子炉「トリウム溶融塩炉」の研究開発を進めてきた古川和夫氏(トリウム溶融塩国際フォーラム理事長・昭和2年生れ)のサイトをみることができた。その要旨は次のような内容である。 「この炉糸は米国のワインバーグ博士がオークリッジ国立研究所で基礎開発に成功している。核燃料は現在の軽水炉に用いられる個体ではなく「液体」のほうが圧倒的によい。1973年には米国国家機関により高い評価を受けた。しかしプルトニウムを生産しないこの原子炉は1976年に、結局『軍需用としては無価値である』という理由で政府により開発は中止させられてしまった。しかし良心的な研究者によって1965年に完成した実験炉は、4年間無事故で基礎技術の開発を終えている。私も1968年に現地を訪ねるまで信じられなかった。 溶融塩炉原発はウランでなく『トリウム』という元素が使われる。液体であるため固体燃料製造不要・・・」とのことである。このような原子炉史があることをはじめて知った。将来新しいエネルギー源として登場するのだろうか。 軽水炉型原子炉を50数基も創ってしまったこの国。そして隠された原発事故は数多く次々と生じてきた。またいつかは大地震がこの大地を襲う。大きな方向転換をしなければならない時代になった。しかしエネルギー需要は、現代社会では不可欠になっている。東電の都合の計画停電などで、市民生活にとんでもない影響が生じることも明確になった。 戦後から今日まで継続されてきた原子力発電を軸とするエネルギー政策は今後、転換されなければならない。電力産業やそれに連なる既得権益擁護集団・関連業界・政治家などは、今回の事故をも時とともに忘却させる世論操作を進めるだろう。しかしそうはさせてはならない。今回の悲惨な大事故を無駄にしないで、人類の知恵で新しい安全なエネルギーを利用する未来をつくる時代を迎えている。そのためにはまず、反原発・脱原発の運動と世論をつくる戦略と行動が求められていると思う。世界は脱原発の方向に大きく動きだしている。一人ひとりが思索し行動しよう。 |
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2011年5月15日 筆者は、元私鉄総連書記/前中野区議会議員 |